活人剣(かつにんけん) その2
22.1.11
文責 髙橋
その1に続き活人剣(かつにんけん)を読む。前回は、相手の手の内や心の変化などを見きって勝つ種利剣を中心に読んできたが、今回は全てが心法について書かれている所となる。立ち会いの心構えから、技と心の関係、病気を去った直ぐな心の持ち方など、心の修養を深めていく。そして、最後に柳生新陰流の奥義ともいえる一去、空、捧心の心持ちを読んでいく。
1 内容
(1)項目
(「ア 百様の構えあり共、唯一つに勝つこと」から「コ 是極(ぜごく)一刀の事」までの「その1」に続く項目。)
サ 立ちあいの心懸け
シ 神妙剣見ること、三段の分別
ス 心は水の中の月に似たり
セ 急急に掛かること、悪し
ソ 心をかえす事
タ 一去という心持ち
チ 空の心持ち
ツ 捧心の心持ち
(2)内容の概要
サ 立ちあいの心懸け
・ここでは、独立していた4つの内容を、立ちあいの心懸けとしてまとめて記述した。
①敵の構えが自分に向けられている時は、相手が打とうとして剣先を上げる所に付けて打つのがよい。
相手が下段や中段の構えの時は、振り上げてから打ってくるものである。振り上げようとする時に合わせて勝つことが大切である。この時に手だけで打とうとすると太刀が外してしまう。体で打つようにすることが簡要である。
②敵を打とうという気持を出して、相手に打たせるようにする。敵が打ってきた時が勝機である。
③水月の場を取るということは心の持ちようである。相手が有利な場を取ろうとするなら相手に好きなように取らせればよい。その後でも自分の場にいくらでも変えることができる。場を取ろうと心が固まることがいけないことなのだ。
・ここで、水月の場を取るのに相手の好きにさせて良いと言っているのには驚く。確かに場というものは相対的なもので、自分が動けばたちまち変化する。有利な立場に立ったと思っている相手は、場が変化して有利な状況が少しでも減少すると、たとえまだ有利であったとしても、焦る気持が出てくるものであろう。この段階ですでに気持の上での勝負は決している。要は心の持ちようである。
④足の踏み所、身の置き具合は、神妙剣の座を外れないようにしておくことが大切。立ち会う前からこの心懸けを忘れないようにする。
・ここでも「神妙剣の座を外れないように」と記述されているが、理解困難。体や手足のはたらきを理に適うようにしておくために、病を去って心を純にして腹に収めておくということか。
シ 神妙剣見ること、三段の分別
・立ちあいで仕掛けていく時の心構えである。この時に、心(心持ち)で見る(観る)ことを根本とする。心で見るから目に留まるのであって、目で見ることは心の次である。目で見て次に身足手で見る(身足手を働かす)べきである。身手足で見るとは敵の神妙剣に我が身足手が外れないようにすることである。純な心で見るから、正しい目付けができ、身足手が神妙なはたらきをするのである。
・心が目や身足手の主人であって、その純な心が観るはたらきを起こすと、目や身足手が自然に理に適ったはたらきをして、相手の真実を知ることが出来ると言うことか。
ス 心は水の中の月に似たり
・心は水の中の月に似たり、形は鏡の上の影の如し。この句は兵法に用いる心持ちである。
混乱しやすいが、ここで書かれていることは、立ちあいの場の水月とは別である。以下続きを読む。
・心を月として、神妙剣の座を水に喩えて、心を神妙剣の座にうつすようにすると、身は心に随って、神妙剣の座にうつるものである。また、神妙剣の座を鏡に喩えて、身をうつすということは、手足は神妙剣の座を外すなという義である。
ここで初めて「神妙剣の座を外れないように」の意味が明らかになった。心に随って身が動き、手足が働くものであるから、心を常に腹部(神妙剣の座)にあるようにしておくことが、手足などが「神妙剣の座を外れない」の状態である。立ちあいでは、まず心を純にして腹部にあるようにしておくことが根本ということである。
・うつる順番は心から身、手足となるが、時間で考えると次のようになる。水に月の光がさすのも、鏡に影が映るのも、瞬時である。同じように、人の心が身、手足にうつるのも、そのまま瞬時である。心のままに手足が働くのが人間本来の性であり、そのまま行えるのが達人であるが、人は心の病によって自由にならない生き物である。
・この項目で述べていることは、神妙剣の座に心をうつすこということだけではなく、場の水月にあてはめても同じ事である。水月の場を鏡としてわが心をうつすようにすると、身もいくものである。立ち会いでは、よくよく心の下作りをし、様子をみるようにしないと、場に身がいかないものである。
・場には水月、身には神妙剣を鏡として、身手足をうつす心持ちは同じ事である。
セ 急急に掛かること、悪し
・心を神妙剣の座にうつし、手足を神妙剣の座を外さないようにしておかないで、急に掛かっていっても、敵にあまされて打ち損じる事が多い。心の下作りを良くして、水月に神妙剣をうつして、待にして打つものである。
ソ 心をかえす事
・心をかえすということは、一太刀打ったならば、打った所に心を置かず、心を引き返して敵の気配を見よということ。打った所に心が止まれば、心に隙ができて敵から反撃を受けて負けてしまうものである。まして、打たれた敵は、死にものぐるいになって、反撃してくるので、厳しくなることを覚悟して油断してはならない。
・また、一途に打った所を、心を返さずに、敵に余裕を与えず、二の太刀、三の太刀を打って、圧倒することも至極の心持ちである。間に髪を容れずとは、これをいう。間延びすれば、相手に攻め込まれるものである。二重三重に畳み打ちにうつ、太刀の急なることをいう。
タ 一去(いっきょ)という心持ち
・一去ということは、心にある病の数々をひとまとめにして、はらりと払うことである。前にも記したように、病とは執着心のことである。心が一所に執着すると、見る所を見外して、負けてしまう。
・十兵衛三厳が「月之抄」で、「習いの数々を思うも病なれば、いずれも皆去って一心ひとつに至る心持ち。一去真の位なり」といっている。
チ 空(くう)の心持ち
・一去するは、唯一(ただ一つ)を見外さないためである。その唯一とは、空を言う。空という言葉は秘伝で、敵の心のことを言う。空を見るとは敵の心を見よという義である。
・心は形がないから虚空のようであるが、この身の主人であって、全ての行動を行っている。心が動かなければ空であり、空が動けば心である。その動かない心を見るのである。
・十兵衛三厳が「月の抄」で、「空の習いは敵の動きはじめる心持ちを見て知る習いなり。迎えを仕掛け、敵の思いつく所を空という。手利剣の起こりのはじめなり」といっている。
ツ 捧心(ぼうしん)の心持ち
・捧心とは、心を捧(ささ)げると読む字である。敵の心は太刀を握る拳に捧げられている。空を打つとは、敵が打とうと思って、その拳を動かそうとするその前の、動かないところを打つのである。
・一去、空、捧心の関係は次の通りである。一去するは空(心)を見誤らない為である。空(心)は手に捧げられている。その手を見ることによって、動くか動かぬかの未発のところを打つことが出来るのである。大切なことは、百病を一去して、空を見外すなということである。
・石舟斎が工夫考案したこの極意を、十兵衛は「月之抄」で、「まづは4つの所に心懸けるべし。敵の目と、足と、身の内と、一尺二寸(腕の肘から拳まで)の4箇所である。心のいく所へは目をやりたく、掛からんと思えば足出るべし。心に思うすじあれば、身の振り常に替わり、みえるものなり。一尺二寸はもとよりはつ(発)するなり。このはつする所、五体の内にていずくにても捧心と知るべし」といっている。
・また、拳の動きについては、「心が打とうとすると、拳に力が入る。すると腕の筋が張ってくる。病を去って心がければ腕の筋が見えるものである」という。
・前にも書いたが、心は目には見えないけれど、その心が動くと様々なことを行い、手足のはたらきが妙をつくすことが出来る。妙を生み出す直ぐなる心を本心という。道心ともいう。本心を得た得道の人には、なかなかいないものである。
・物事の道理を極めた人は、一つの道だけでなく、よろずのことにも道が適い、心が外れないものである。これを通達の人という。一能一芸の人は、達者といって通達の人とは言わないものである。
・心には本心と妄心の二つがあって、本心を得て、本心のままに行うと全てが真っ直ぐとなる。本心が妄心に負けていると、行うこと全てが汚れてしまう。本心と妄心と二つのようだが、心は一つで本来備わっているものである。感情の発する所に妄心が生じて、本心が隠れるのである。
「心(妄心)こそ 心(本心)まよわす心(妄心)なれ 心(妄心)に心(本心) 心(本心)ゆるすな」
・妄心は心の病である。妄心をさるを病をさるという。病が去れば無病の心になる。これを本心という。本心の位に到達したら兵法は名人となる。ありとあらゆる事も道理を外すことがなくなる。
2 所見
・殺人刀(せつにんとう)から活人剣(かつにんけん)まで読んできて、立ちあいの心得や技法など色々あったが、最も重要と思うの事は、次の4つではないだろうか。去病、すなわち執着を去ること。心を身に、手足にうつし働かすこと。捧心、未発の時を打つこと。本心を得る修行に励むこと。
・執着を去る為には、勝とうと思うこと、掛かろう思うこと、待とうと思うこと、習った技にこだわること、有利な場を得ようとすること、心を一所に留めることなど、全てを心の病気として一去することを述べている。有利な立場は重要だが、それにこだわることが悪いと丁寧に教えている。
・心は身の主人であり、心を意識し神妙剣に納め、下作りを行い、手足にうつして妙なる働きをさせることを述べている。心ここに在らざれば見るものも見えずなどは端的な例である。更に本心を得る修行に励むと、心を納めることより、心を放ちて自在にすることを説いている。「放心心」である。
・捧心、未発の時を打つは、究極の打ちになる。一去した無病の目付で打つより、空を見て打つ拍子の方が早い。空よりは捧心、未発の時を打つは更に早いと、宗矩が十兵衛に語っている。
・まとめとして、分かりにくい「手字種利剣」「水月」「神妙剣」については、次の文章を参考にしてほしい。宗矩の弟子であり交友の深かった鍋島元茂は「これを撃つ所、即ち手字を以てし、これを見る、即ち種利剣を以てし、これを間す、即ち水月を以てし、これを治む、即ち神妙剣を以てす」と述べている。
・次回は無刀之巻(むとうのまき)を読んで兵法家伝書を読み終わる。