活人剣(かつにんけん) その1
21.12.27
文責 髙橋
1 活人剣の概要
いよいよ難解な活人剣の巻に入る。前に書いたように、柳生石舟斎宗厳(むねよし)は「没滋味手段口伝書」に、「当流に構太刀を皆殺人刀といい、構えの無いところをいずれも皆活人剣という。構えを全て捨て去って、その無いところから生じるので活人剣という」とある。「守・破・離」でいえば、活人剣は柳生新陰流の「破・離」の教えになるのか。この後に続く「無刀の巻」に至ってはなおさらである。
「手字種利剣」「有無の拍子」「水月」「神妙剣」など興味の尽きない内容が続くが、理解しがたい所が大変多い。理解出来ない所は、そのままに読み進めて行くことをご了解されたい。
2 活人剣の内容
(1)項目
ア 百様の構えあり共、唯一つに勝つこと
イ 有無の拍子を見極める
ウ 水月(すいげつ) その影の事
エ 神妙剣(しんみょうけん) 座の心懸けを身に取り足にとる事
オ 病気を去る、三つのこと、敵にある病なり
カ 指目の目付、拍子の持所
キ 歩みのこと
ク 一理の事
ケ 敵身方(てきみかた)両一尺(りょういっしゃく)の事 相寸 無刀の用心
コ 是極(ぜごく)一刀の事
(「立ちあいの心懸け」以下は、活人剣(その2)につづく)
サ 立ちあいの心懸け
シ 神妙剣見ること、三段の分別
ス 心は水の中の月に似たり
セ 急急に掛かること、悪し
ソ 心をかえす事
タ 一去という心持ち
チ 空の心持ち
ツ 捧心の心持ち
(2)内容の概要
ア 百様の構えあり共、唯一つに勝つこと
・勝つためには極まるところ、「手字種利剣(しゅじしゅりけん)」これである。百様千様色々と教えて、稽古した技の数々も、この「手字種利剣」の目付に極まる。秘伝であるので、「シュジシュリケン」を「手字種利剣」と表した。
・家伝書の中で「シュジシュリケン」は「手字種利剣」の他に「手字」を省略した「種利剣」、「手利剣」「種裏剣」の使用もある。同じ意味かどうかは定かではないが、共通していることは、敵の隠し持っている手の内を見て(観て)動きを察知して勝ちを得るということである。宗矩は別の書で、敵の斬りつけてくる太刀に、十文字に合わせることを「手字」といって、このように刀を交差させれば、敵の太刀は我が身に当たることはないと言っている。また、「種利剣」とは、手の内を観ることであると言っている。十兵衛三厳は、「手字」は着物の合わせ目、衣紋(えもん)のことだといっている。形から、V字に太刀を合わせることなのか。この形は前に記した栴檀の太刀筋と同じである。
・次の項目以下、色々と述べられている今回の内容は、病を去って手字種利剣を働かすこと(見ること)に尽きるということであろう。
イ 有無の拍子を見極める
・有無の拍子を見極めるとは、手字種利剣を働かして相手の有無の動きを観ることをいう。動かないところでも心がければ、種利剣の眼(まなこ)で手の内がよく見えるものである。現われれば有、隠れれば無だが、その実体は一つ。有の時は有につけて打ち、無の時は無につけて打つ。
・太刀を握る手にも有無と言うことがあるが、その見方は秘伝である。手を伏せれば有は隠れ、手を仰げば(上に挙げることか?)無が有となって現れるのだが言い尽くしがたい。この有を観ては有を打ち、無を観ては無を打つべきである。この種利剣の有無の見方を間違えると、百様手を尽くしても、決して勝利を得ることは出来なくなる。「百様の兵法も、この一段に極まるところ」となる。
・手の内を見る種利剣は、ここでは有だけでなく無をも見ることになる。秘伝としている太刀を握る手の有無の見方は、目付の「二星」や「嶺谷」などを見て、相手の考えを見抜くことだろうが、残念ながら、そこまでは書かれていない。
ウ 水月(すいげつ) その影の事
・相手との間に何尺あれば斬られないかの間合があって、その尺(しゃく)を隔てて兵法を使う。また、この尺のうちにぬすみ込んで相手に近づくのを、水に月の影(光のこと)がさす状態にたとえて水月という。心に水月の場(相手との間合)をあらかじめ考えてから立ち会わなければならない。
・尺については口伝と書かれているが。宗矩の息子の十兵衛三厳は次のようにいっている。「敵の身の丈、我が身の丈を、三尺の習いの如くつもるなり」、「水月とは、敵の影をうつしたることを申候。敵の丈を下に映して、そのつもりほど間があれば、何ほど切り掛けても我が身には当たらぬと申候」。「つもり」とは間合のことである。相手の姿を水に映すように、相手の背丈を下へ映して、その長さほど間合いがあれば斬られない間合になるということである。
・ここでは「水月」のことを間合に入ることとしているが、後になると場における心と身足手のはたらきへと発展していく。
エ 神妙剣(しんみょうけん) 座の心懸けを身に取り足にとる事
・「神妙剣、至極の大事也」。太刀のおさまる所という。
・万物と同様に、人間の中には主体たる純粋エネルギーとでもいう何物かがある。是を「神」と名付ける。「神」は「心」の主人であり、「心」から色々な「働き」が出てくる。この「働き」を、霊妙不可思議で人智では測りしれないある力の「妙」と名付ける。「神」を神妙剣の座にすえているので、「妙」が手足に顕れるのである。
・神妙剣の座を、三厳は臍の周辺5寸(宗矩は6寸と言っているが大差ないものと思う)四方にあるという。いわゆる腹部であり丹田である。右に構えても左に構えても太刀は神妙剣の座のところにある。心も身足手も太刀も目付も神妙剣の座を外さないことが重要である。ここでの「神妙剣の座を外さない」が難解である。
・「神妙けん」の「けん」は、我身にあっては絶妙なる剣の働きの「剣」に意味があって、敵に対してはその働きを見る「見」に意味がある。
・手足を働かせる「心」が一箇所に留まると、兵法の技量が落ちて絶妙な「働き」が隠れてしまいうので、留まらないようにする事が簡要である。このことは、兵法だけではなく、万物にわたることで、「神」と「心」との心得である。
・宗矩は神妙剣の座のことを中墨(なかすみ…中と隅のこと)ともいう。中の座に「神」が座って、隅の手足の「妙」なるはたらきが出ることをいうのであろうか。或いは、神妙剣の座は腹部(丹田)にあるが、心を腹部(丹田)に納めることにこだわると、心が留まることになるので、身体中の隅々に自在に放置することをいうのであろうか。殺人刀の巻でも、心が留まることが病気であるならば、心を納めることより、心を放つことが大切だと述べられている。
・宗矩は「神・心」について次のようにも言っている。「心をよく鍛えて、年月の稽古で病気をことごとく捨て去った後に、「神」一つが残って6寸四方の内に留まると心得よ。この神・心は、よく鍛え抜いた後に残った純粋なものである」。
・三厳は、「手字種利剣」「水月」「神妙剣」の三つが兵法の父母であり、この三つより心持ち種々出てくると述べている。表面的に解釈すると「相手の手の内を見て、間合に入り、迷いのない太刀を使う」ということであろう。
オ 病気を去る、三つのこと。敵にある病なり
・敵と対した時の三つの病気がある。太刀を持つては、打とうと思うこと。勝とうと思うこと。合わせようと思うことである。これらは、心が駄目になって病気になる所である。
・病気については殺人刀の最後に多くの言葉を使って述べられていたのに、ここで唐突に「病気を去ること、三つのこと」と出てきたが、何故だろうかと考えてみた。思うに、一つは敵を意識することが病気であると言うことであろう。そのことは前回の終わりの部分にあった「病を去った達人は、「平常心(びょうじょうしん)是れ道」。心は無念無心となり、花を見ては花と思わず花を見て、敵を見ては敵と思わず敵を見て、不動心で居られる」と同じ意味であろう。あと一つは「懸待」を意識することの否定ではないか。「打とうと思う」は懸を意識していることである。「勝とう」「合わせよう」は待で勝とう、応じようが含まれている。即ち「敵」と「懸待」を意識することを、このさりげない文章で否定しているのである。「懸待」は殺人刀では重要な部分であった。それがここで簡単に否定されるところが、殺人刀は技法を、活人剣は心法を主体に述べているということである。
・宗矩の剣の弟子であり、交流の深かった細川忠利の残した文に、次のような言葉があるので参考になると思う。「試合では「待」の方が必ず良いという人がいるが、どうであろうか。懸かる人が下手で、「待」の人が上手であるならばその通であろう。しかしながら、懸かる人も待の人も共に上手の人であったならば、剣は懸かるを本意とするのである。ここで「懸かる」というとまた誤解を生じる。上手の人の心持ちとしては、「心には鏡の如く一点の塵もなく、求める所もない」ということで、懸かるという意識もなく懸かると言うことである」。
カ 指目(さしめ)の目付、拍子の持所(もちどころ) 口伝
・初めに目を留めた所に目をつけ、他の所に目を移さないで勝ちを得ること。
・口伝であるので、この理屈はよく分からないが、神妙剣から相手を観たら、自然に勝つ所が初めに目に就くのではないだろうか。この「妙」なるはたらきを信じて、脇目も振らず打ち込むことが、勝ちに繋がるということではないか。次の回で読む所の「神妙剣見ること、三段の分別」では、心でみて、目でみて、身手足でみると言っている。このことも参考になろう。
キ 歩みのこと
・歩みは、早いのも、遅いのも悪い。早い歩みは動転しているからで、また、遅い歩みは怖れているからであって、常の様に歩むのがよい。病を去った平常心・不動心である。
・別の書で宗矩は、「この歩みは水月に入るまでの考え方で、静かなことが良い。場を越えてからは一調子早くするのが良い。足取りは、うきうきするようにして、引きつらないようにすると、前に進む気持が出来るものである」と述べている。
・歩みは技法であり、殺人刀の巻こそ相応しい内容ではないかと考えるのだが、ここで初めて述べられている。「敵に近づく」とは心の問題であるとの意であろう。
・ここで書かれている「歩み」で立ち会いをイメージすると、「太刀を持って歩んで近づき、間合にスーと入って自然に太刀を振るって勝つ」ことになる。武蔵も歩み足と言っていたことを思い出した。
ク 一理の事
・差し迫った状況下で不覚を取らないように用心することを一理といい、相手を正面に見据え、正眼の構えをとることをいう。背中に壁が在って下がることが出来ない状況や、槍で迫られた時や、無刀の時の心構えである。
ケ 敵身方(てきみかた)両一尺(りょういっしゃく)の事 相寸(あいすん)無刀の用心
・太刀の伸び縮のことで、お互いに腕を伸ばしても一尺しか伸ばすことが出来ない。この間合いに入る時は無刀の用心が必要となる。相寸とは同じ寸法の太刀のこと。
・前の項とこの項で「無刀」という言葉が出ているが、活人剣の終わりの「無刀の巻」で詳しく述べられている。
コ 是極(ぜごく)一刀の事
・一刀とは刀のことではなく、敵の機を見ることをいい、極めて大事なことである。敵の機を見ることを一刀と心得、はたらきに随い打つ太刀を第二刀と心得える。これを基本にして様々につかう。
・手利剣、水月、神妙剣、病気の四と、手足の働きを合わせた五を、五観一見という。心で見ることを観といい、手利剣、水月、神妙剣、病気、身手足の五である。目で見ることを見といい、手利剣を見ることを一見という。機を心で観て、目で見るのである。
・水月、神妙剣、病気、身手足を改めて説明すると次の様になる。水月は立ちあいの場の座取りである。神妙剣は身の内の座取りである。身手足は敵を見ると共に我が身のはたらきである。去病は正しく手利剣を見るためである。すなわち、この四つは病を去って、水に月影が差し込むように、心を神妙剣の座に保ち、手足のはたらきを自在にする。こうすると、正しく手利剣を見ることができるのである。座取りとは心の奥に持つことである。
・心に病在れば見損なって負ける。心が留まる事が病なら、打った所に心を止めないで捨て去ることが大切である。捨てる心が残心となる。これが捨てていて、捨てていないということである。
・「手利剣を見る」は、今までは手の内を見ることであったが、ここでは機を見ることにまで広がってきた。「機を見る」とは心の変化をみることである。打つタイミングとしては、初めは相手の動きに「応じて」であったが、ここでは「今この変わった一瞬」となった。この後には「機(気)の起こる前」の「無」をうつことになる。
3 所見
・いよいよ活人剣の巻になったが、「手字種利剣」「有無の拍子」「水月」「神妙剣」「一理」「一刀」など、説明をされなければ理解しがたい内容が続いている。なかなか先へ読み進めない理由は3つ在る。一つ目は、達道の人であって初めて理解できる内容であること。2つ目は、他流の者に秘するため本当の文字を使わずに他の文字で音を表していること。3つ目は、重要なことが秘伝・口伝とされていることである。
・今回は「手利剣」で相手の手の内を見るから始まって、「手利剣」で機を見ることまで読んだ。「手利剣」を正しく見るが主要テーマであった。繰り返すことになるが、病を去って、水に月影が差し込むように、心を神妙剣の座に映し、手足のはたらきを自在にする。こうすると、正しく手利剣を見ることができるのである。
・「神妙剣」についてはよく分からない。丹田に納めるものであるから、初めは「気」ではないかと思ったが、「気」の主人が「心」であり、「心」の主人が「神」であるというので、「神妙剣」の主体は純粋な何物かである「神」なのであろう。心も身足手も太刀も目付も神妙剣の座を外さないことが大切であるということは、病気を去って純になれということであろう。いずれにしても、もやっとしていて頭を抱えてしまう。活人剣その2では心法一色になるのでそこで改めて考えてみたい。
・殺人刀で色々と述べてきた、「待」で勝つ道理をさらりと捨て去って、更に高峰を指し示す宗矩の心意気に、深い感銘を受けている所である。