殺人刀(せつにんとう) その2
21.12.12
文責 髙橋
その1に続き殺人刀(せつにんとう)を読む。前回の懸待一如に続いて待にて勝つ道理を展開すると共に、拍子、間合、目付などの技法について記述されている。殺人刀の最後に心の病の克服について記述することにより、活人剣(かつにんけん)への移行を図っている構成はみごとである。
1 内容
(1)項目
(「ア 序」から「ク 二目遣い」までの「その1」に続く項目。)
ケ 打ちにうたれよ、うたれて勝つ心持ち
コ 三拍子
サ 大拍子、小拍子
シ 師匠と立ちあいて習い口伝せずば、なるまじき条々、6ヶ条
ス 師匠と立ちあいて習い口伝せずば、なるまじき条々、4ヶ条
セ 風水の音をきく事
ソ 病気の事
(2)内容の要点
ケ 打ちにうたれよ、うたれて勝つ心持ち
・間合に入って人を一太刀斬ることは難しくないが、人に斬られないようにすることは難しいものである。ところが、身にあたらない間合いを理解していて、その間合で相手に打ち込ませても、斬られることはない。相手の太刀は死太刀で、そこを越してうって勝つようにする。敵の先ははずれて、我はかえって先の太刀を入れることが出来る。一太刀打ってからは、迷わず二の太刀、三の太刀を入れて、敵に反撃の機会を与えずに勝つことが大切である。
・先手を取った後に迷う心が生じると、相手の反撃を許し、負けるものである。心が止まるためで、先の太刀を無にするものである。
コ 三拍子
・当拍子、付拍子、越拍子のこと。当拍子は相打ちのこと。付拍子は、打ち込もうと手元を挙げたところに付けて打つこと。越拍子はさぐってきたところを越して打つこと。心の動きと動作と仕掛けとが合っている拍子は分かりやすくて良くない。拍子が合うと敵の太刀の使いが良くなってくる。太刀を使いにくくするように打つのが良い。
・付けて打つのも越して打つのも無拍子に打つようにする。相手の動きにのる拍子は悪い。無拍子の打ちとは、相手の気が生じる前を打つことで、相手の動作が起こったのを見てから打つことではない。
サ 大拍子、小拍子
・立会では敵の拍子と合わせないように心がけのこと。相手が大きな動きの大拍子のときは小拍子で対応し、小さな動きの小拍子の時は大拍子を使うようにする。こうすると、相手の動きはぎこちなくなって、こちらは容易に踏み込むことができるようになる。
シ 師匠と立ちあいて習い口伝せずば、なるまじき条々、6ヶ条
一、太刀づれの事・・敵の打ちにつれ懸けて打つことをいう。
一、敵身方両三寸の事・・仕掛ける時、互いに太刀を構えていて、三寸(9㎝)いきちがえば勝つということ。(刀の長さを3尺3寸とすると、剣先から相手までは3尺以上の開きがある。斬る時に1尺手が伸びるとして、2尺(60㎝)以上の踏み込みが必要になる。)
一、身の早速ぬすみこむ事・・身を寄せること。三尺(90㎝)をぬすんで入るという。
一、上段にからみの目付の事・・ひじのからみのそと。嶺谷のうら。
一、車の太刀、左右ともにわけめ目付の事・・わけめは両拳の間。柄のこと。車の太刀とは脇構えのこと。
一、三尺つもりの事・・つもりは間合のこと。我が足先と敵の足先までの間、斬る時に三尺まで寄ることを専とする。(相手が足を開く構えで、右足先の上方に右手拳が来ている場合、相手の体は、我がつま先から3尺7寸の間があることになる。3尺3寸の太刀で1尺腕を伸ばして斬ると、6寸(18㎝)深く斬る事が出来る計算となる。)
・この六ヶ条は師弟立会で重要なポイントを口伝しなければ理解できないものであり、ここに全てを書き記すことはできない。
・色々と序を切り懸け、表裏をしかけても驚かないで、待で守っている敵に対しては、三尺をぬすみ近くに寄ろうとして敵を誘ってみる、すると、敵はこらえきれずに懸となって向かってくる。このように工夫をして敵に先を打たせて勝つようにする。当たらない間を覚えれば簡単にはうたれない。怖れずに敵に近づいて、打たせて勝つ。これは先々の心持ちである。
ス 師匠と立ちあいて習い口伝せずば、なるまじき条々、4ヶ条
一、大曲(たいきょく)の事・・説明に序の切りかけの事とある。二目遣を働かして相手の好む処を探り、わざと隙を作って相手に好きなところを打たせて勝つことを曲という。(「待曲」の方が意味を正しく伝えている。)
一、残心の事・・懸待ともに用いる。打っても、外しても、引いても、少しも目付に油断無く心を残して置くこと。(ここでの「残す」は「用心すること」であるが、表現としては誤解されやすい。家伝書では「心を止めない」とか「心をかえす」ことで敵の反撃に対応している。)
一、小太刀一尺五寸のはづしの事・・肩先より拳まで一尺五寸(45㎝)のはしと定め、その間合に入って、切ってきた太刀を外せば、小太刀は敵の首に当たるものである。(外す方法について、体捌きで外すのか、小太刀を使って外すのか記されていないが、無刀の巻まで読み進めていくと、敵が打ち掛かろうとしている時には、既にこの間合に入っているのではないだろうかと想像している。)
一、懸かる時に懸待ある事・・身は懸に、太刀は待に心得るべし。踏み込みが先で、打突は後と心得ること。
・これも師弟立会で重要なポイントを口伝しなければ理解できないものであり、筆で書き表すことは難しい。
セ 風水の音をきく事
・当流の兵法は、「表裏を基として、様々に序を切りかけ、色をしかけて、敵に先手をさせて、勝つ分別」だけである。立ち会う前には、相手が懸でかかってくるものと覚悟して準備しておくと不覚を取らないものである。立ち会ってからは「心身足をば懸に、手おば待にすること簡要」である。
・「有(う)をよく心にかけて見るべし」。有とは我が目を敵の目付の動きに付けること。「有を手に取れ」との教えである。目は心の窓である。目を見て相手の心を知ることが出来る。このようにして相手の動きを見なければ、習った太刀も役に立たなくなるものである。
家伝書には書かれていないが、これと対をなす「脇目付」というのもがある。自分より上手な人に自分の心を悟られないように、わざと相手の目を見ないようにすることである。
・「風水の音をきく」とは靜かにして音を聞くという意ではない。風や水の姿を喩えていうことである。風も水もそのものは靜かだが、物に当たって音を出す。この姿と同じように、立ちあいにあたっては、表面上は靜に構え、内面においては気を懸にして油断無く持つということ。逆に、いったん手足を動かし懸かる時は、内は気を靜にすれば、動きに乱れは起こらない。このように、陰陽、動静、懸待を内外に互い違いにすることが天理に適う道理である。
ソ 病気の事
・何事か、心の中にとらわれている物がある状態を病という。「驚・懼(く)・惑・疑」だけでなく、勝とうと思うのも、技を出そうと思うのも、仕掛けようと、或いは待とうと思うのも、そして、そうした病を去ろうと思うことさえも全て病気であるという。これらは誰もが心に持っている病であり、これらを去って心を調えることが重要となる。
・病を去るに初重(しょじゅう)、後重(ごじゅう)の心持ちがある。
・病を去る初重とは、病を去ろうと思う念が病なら、その念を、一念をもって消すようにすることである。病の念を消し去れば、病の念を消そうとした念も自然と消えていくものである。これを無念といい、執着を消した無着という。
・後重とは、少しも病を消し去ろうと思う心を持たないで病を消し去ることである。病を去ろうと思う心が病気であるならば、病気に任せてそのままに居れば、病に囚われていない状態なので病は去ったことになる。この境地は、初重の心持ちを修行し、功もしだいに積もってくると、執着を離れようと工夫しなくても、自然と無着になってくるものである。仏道も兵法も着ということを嫌う。修行を重ねて心の玉を磨いていくと、泥中に在っても汚れなくなるものである。
・病をさると、無心にして行うところ自由闊達、理に適ってくる。
病を去った達人は、「平常心(びょうじょうしん)是れ道」。心は無念無心となり、花を見ては花と思わず花を見て、敵を見ては敵と思わず敵を見て、不動心で居られる。不動心とは心が動かないようにすることではなく、放心心を具すること。仏の姿に不動心を観る。
2 所見
・「打ちにうたれよ、うたれて勝つ心持ち」からは、相手に先を打たせ、空を切らせて、それに越して勝つことを述べている。そのために大切なことは「斬られる間合」、「斬られない間合」をしっかりと理解することである。刀の交わり具合や、足と足との距離で間を測る工夫は、竹刀剣道でも応用できる。また、相手の好む所に隙を作ったり、間合に入る動作を起こして誘ったりして、相手に先を打たせる工夫も参考になる。間合は活人剣では「水月」に発展する。
・「拍子」では、自分のリズムで戦うと勝つことが出来るが、相手のリズムに乗せられると不覚を取るといっている。出鼻や返し技が決まるのは、自分のリズムの時である。相手の拍子を外す大拍子も効果的に活用できる。また、「無拍子」の技は、活人剣では気の起こる前の空を打つ所まで深められていく。
・「風水の声をきく」の心持ちで立ち会う姿は想像しただけで美しく、高段者の姿である。
また「風水」という言葉も美しい。活人剣でも美しい造語が多く出てくるので楽しみにして欲しい。
・「病気の事」は特に記述が詳細にわたっている。宗矩自身「兵法を修行するとは、心を修行することに尽きる」と述べているように、大切な項目になる。また、活人剣の前提は全てが去病であり、殺人刀から活人剣への繋がりとなっている。
・「どうしてやろうか、こうしてやろうか」と考えていると、心が一所に留まって自由を欠き、手足のはたらきを鈍くさせてしまう。これは体験でも感じたことである。この「心の病」の解決策について、ここでは初級の段階から上級者の段階に至るまでの方法が述べられている。心を調える工夫を重ねると、雑念の中にいて雑念を追うことなく、その瞬間に対応することができるようになる。これが病を去った状態である。ただし、その瞬間に対応できる前提は、技を繰り返し繰り返し稽古して、無心になった時でも自然に手足が働けるようになっていなければ成立しない。先ずは稽古か。
・心法については、活人剣や無刀の巻で、さらに深められていく。
・不動心のところでは、沢庵禅師の「不動智神妙録」の事を思った。最近の資料では、沢庵禅師が家伝書を最後の段階でチェックしたと言われている。
(活人剣につづく)