21.9.16
文責 髙橋
9年連続200本安打を達成したイチロー選手に関する読売新聞の記事に、次のような文章を見つけた。「どうすれば、そんなに安打を打てるのか?の問いに、イチローは『手を出すのは最後だ』と答えた」と。この言葉で、ハッと気が付いた。野球も剣道も同じなのだと。
この言葉と同じ様なことで、鈴木先生はいつも私達を指導している。「打突は、足が先で手は後」と。大阪体育大学の作道先生の資料の中にも同じ言葉が見られた。柳生新陰流の「兵法家伝書」の中にも同様のことが書かれている。
是は「懸待一如」についてのことである。
今回のイチロー選手の言葉に触発されて、消化不良ながらも「懸待一如」についての資料を見ながら、考えてみる。
1 考えた動機
近頃、稽古する相手の技量が高いので、相手の構えの崩れてない時に打ち込んでも、技が決まらないことが分かってきた。日本剣道形で、打太刀が斬り込んで、仕太刀がこれに応じて勝つ道理も、少しずつ飲み込めるようになってきた。
是は、懸待一如の働きである。特に、「待」には、「受動性・静寂性」と、これに相矛盾する「能動性・積極性」の摩訶不思議な働きがある。これを理解し、少しでも身につけることによって、私自身の剣道の質を向上させたいと思った。
2「懸待一如」についての一般的な説明
「懸」はかかりで打突していくこと、「待」はまつで応じることである。「懸待一如」とは攻撃と防御が表裏一体をなすもので、攻撃中も相手の反撃に備える気持ちをうしなわず、防御にまわっている時でも常に攻撃する気持ちでいることの大切さ、相手を攻め打突する技がそのまま防ぐ技となるように、また防ぐ技がそのまま攻める技に変化するように心がけなければならないことを教えたものである。
2 千葉周作の懸待一如
千葉周作述剣術物語」には単刀直入な表現で次のように現されています。
「打を持って待ち、待つを持って打ち、退を持って進む、これ利功の要用な り。」
これで、変化への対処、残心、進退の自在が可能になる。
3 柳生新陰流の「兵法家伝書」
「兵法家伝書」には、やや異なる意で詳しく述べられている。
(1)殺人刀(せつにんとう)上の巻 懸待二字の子細の項では、
「懸とは立あふやいなや、一念かけてきびしく切ってかかり、先の太刀をいれんとかかるを懸と云なり。敵の心にありても我心にありても懸の心持は同じ事也。待とは卒爾にきってかからずして、敵の仕かくる先を待を云也。きびしく用心して居るを待と心得べし。懸待はかかると待との二つ也。」と、先ず全体について述べて、以下懸待の道理について詳しく記述している。
身と太刀に懸待の道理がある。
身を敵に近くふりかけて懸とし、太刀は待とする。すると、身の懸が敵の先をおびき出して、勝つことが出来る。
心と身とにも懸待がある。心を待にして、身を懸にすべきである。心が懸だと走りすぎて斬ろう斬ろうとするから負ける。身を懸にして敵の先をおびき出して勝つべきなり。逆に、「心を懸に、身を待に」の考えもある。これは、心は油断無く働かして懸とし、太刀を待にして人に先をさせるという方法である。身とは太刀を持つ手と心得ると理解できる。言い方は二通りあるが、極まるところは同じ心。とにかく敵に先をさせて勝つということである。
(2)他の箇所でも懸待について、繰り返し記されている。
かかるときの心得として「かかり候時、懸待あること、身を懸に太刀は待に心得るべし」とある。足が先で、手が後のことである。
風水の声を聞くの項では「上は静に、下は気懸に持つ。懸待を内外にかけてすべし。一方にかたまりたるはあしし。」と、心と体、足と手などが懸懸或いは待待と一方に偏らない様にせよと述べている。
その他に、敵が懸の時や、待の時に、どのように目付や、身構えや、心構えをしたら良いかなども述べられている。
(3)参考として
懸待有(ゆう)の事(上泉信綱が柳生石舟斎に相伝した燕飛巻に)には、「懸待表裏は一隅を守らず。敵に随って転変し、一重の手段を施す。あたかも風を見て帆を使い、兎を見て鷹を放つがごとし、懸を以て懸となし、待を以て待となすは常の事なり。懸は懸にあらず、待は待にあらず。懸は意待にあり、待は意懸にあり」とある。
有とは働きのこと。手に有を持つとは、敵の働きを我が手の内に握り持っている心持ちで、相手に応じ懸待を自在に働かせるこの心持ちが出来てこそ、活人剣が発揮できることになる。
(4)まとめ
このように、「懸待」には相手に仕掛ける「懸」と、相手に仕掛けさせる「待」とがあるのだが、それだけではなく、身を相手に振りかけて懸になし、太刀のほうは待にして、相手との呼吸をはかることもあれば、心を待にして、身では懸をめざすということも、その逆もある。そのように「懸待」を多様に生じさせていく。これがいわゆる「懸待一如」とよばれる所以である。
4 終わりに
懸待を考えるには、「兵法家伝書」が解りやすく、参考になった。鈴木先生の指導も体系的に理解できた。まずは、足を懸にして、ぎりぎりまで手を待にする工夫をしていきたいと思う。ここで取り上げた「兵法家伝書」は、五輪書と並び称されている兵法書であり、いずれ別の機会に紹介したいと考えている。