文責 髙橋
②では3条から8条までを載せる。特に、6条の「物の見方」や、8条の「どんなに忙しくとも、忙しいと言わない方がよい。リーダーが忙しいと言うのは恥である。」などは大いに考えさせられる。
3 時世につれて変えるべきは変える
(本文)
家々に祖先の法あり、取失ふべからず。又仕来(しきたり)仕癖(しぐせ)の習あり、是は時に従て変易あるべし。
兎角(とかく)目の付け方間違ふて、家法を古式と心得て除け置き、仕来仕癖を家法家格などと心得て守株(しゅしゅ)せり。時世に連れて動すべきを動かさざれば、大勢立たぬものなり。
(意訳)
家々には基本ともいうべき家法というものがあり、その他のことを定めた決まりというものもある。家法は違えてはいけないもので、一方決まりは状況に応じて変えるべきものである。ところが往々にして、家法をないがしろにし、決まりを後生大事に守っている。変えるべきものは変えていかないと、行き詰まってしまう。
(参考)
・変えてはならないもの……先祖の法
時と共に変えるべきもの……習慣
・守株……愚かな習慣に囚われている事。
「韓非子」木の株にぶつかって死んだ兎を手に入れた百姓が、その後もその木の株に兎がぶつかるのを待ち続けたという故事
童謡「待ちぼうけ」の元、北原白秋作詞・山田耕作作曲
・「時世につれて動かすべきを動かさざれば、大勢立たぬものなり。」……名言
大勢……ある方向に決定的に動いていく。
4「きまり」に拘らない
(本文)
先格古例に二つあり、家法の例格あり、仕癖の例格あり、先づ今此事を処するに、斯様斯様(かようかよう)あるべしと自案を付、時宜を考へて然る後例格を検し、今日に引合すべし。
仕癖の例格にても、其通りにて能き事は其の通りにし、時宜に叶はざる事は拘泥すべからず。自案と云ふもの無しに、先づ例格より人るは、当今役人の通病なり。
(意訳)
家法や決まりにも前例や定まった仕方がある。但し、何かをする時には、まず自分の案を作れ。次に状況に照らして妥当性を検討し、最後に今まではどうしていたのかを参照せよ。きまりに拘る必要はない。
ところが今の人は、自分の考えを持たずに、まず前例やきまりから入ろうとする。これは役人全般の病気である。(江戸時代の話が、平成でも同じとは。)
5 機に応ずるということ
(本文)
応機と云ふ事あり肝要也。物事何によらず後の機は前に見ゆるもの也。其の機の動き方を察して、是に従ふべし。物に拘りたる時は、後に及でとんと行き支へて難渋あるものなり。
(意訳)
機に応じるということ肝要。物事はどんなことでも前兆というこのがある。その動きを察して柔軟に対処しなければならない。物に拘泥して対応を誤ると、後でひどい目に遭う。
(参考)
・ものに拘泥せずに、機に応ずることが肝要。
大切な事を「肝要」これは「肝腎要」のこと。肝臓・腎臓・腰のこと。肝臓はエネルギーの元、腎臓は浄化装置、腰は動きの中心。
・機に応ずるとは、内容・時期がビシッと決まる事。
注意心のある人には、何が起こるか見えてくる。優れたリーダーは、時として、予言者のごとく、次に起こる事が見えてくる。
マキャベリーは言う。幸運の機会は、向かってくる時に捕まえないと逃してしまう。すれ違ってからでは、後ろ髪も掴めないと。
6 活眼にて物を見る
(本文)
公平を失ふては、善き事も行はれず。凡そ物事の内に入ては、大体の中すみ見へず、しばらく引除て活眼にて惣体の体面を視て中を取るべし。
(意訳)
物事が見えなくなるのは、贔屓目で見たり、渦中に入り過ぎたりする事。一歩身を引いて活眼で全体を見るようにし、極端でない物を取ると、間違いがなくなる。
(参考)
・ものを見る・考えるの3原則(安岡正篤)
ある一面だけを見ずに、多面的に物を見る。
枝葉末節にとらわれずに、根本的な見方をする。
目先の事にとらわれずに、長期的に判断する。
7 小量の病
(本文)
衆人の厭服(えんぷく)する所を心掛べし、無利(むり)押付の事あるべからず。苛察(かさつ)を威厳と認め、又好む所に私するは皆小量の病なり。
(意訳)
部下が嫌がることは何か、考えなさい。無理を言うこと。いたずらに厳しくすること。自分の好むことだけをすること。これを器量が小さいという。
(参考)
・苛察を威厳と思うな。
孔子を形容する言葉に「子は温にしてはげし。威ありて猛からず。恭にして安し。」 (温和であってしかも厳格、威厳が備わっていても威圧感がない、礼儀正しくして窮屈を感じさせない。)
人物はこうでなければならない。
・小量とは度量が小さい事。
人物の見方の第一の要素として「気」がある。
元気・意気・志気・気骨というものである。
次に、人間の知識・見識というものが出てくる。知識というものは初歩のもの。見識というのは、判断力。見識が立たないと物事が決まらない。
見識の次ぎは、実行の段になる。肝っ玉が必要になる。実行力である。これが胆識である。
人間が人物となるためには、骨力、気骨と見識・胆識、それに度量というものがなければならない。
8 「世話敷と云はぬが能きなり。」
(本文)
重職たるもの、勤向繁多(きんこうはんた)と云ふ口上(こうじょう)は恥べき事なり。仮令(たとえ))世話敷(せわしき)とも世話敷と云はぬが能きなり、随分手のすき、心に有余あるに非れば、大事に心付かぬもの也。重職小事を自らし、諸役に任使(にんし)する事能はざる故に、諸役自然ともたれる所ありて、重職多事になる勢あり。
(意訳)
重職たるもの、忙しい忙しいと言うのは恥である。たとえ忙しくても言わない方がよい。忙しい忙しいと心に余裕が無くなれば、大切なことに気付かなくなってしまうものだ。重職の身でありながら忙しい思いをしてしまうのは、細かなことでも何でも自分で行って、部下を上手に使っていないからだ。そうすると部下はすっかり当てにしてしまい、重役に何でも持ってきてしまう。これでは、益々忙しくなってしまう。だから恥という。
(参考)
・「勤向繁多と云ふ口上は恥べき事なり。」
ほとんどの人にとって、心当たりのある、耳の痛い言葉である。
よく忙しい忙しいと言うけれど、これは重役にとっては恥ずかしい事になる。
重職の本分たる、大事に手抜かりがでやすくなることだ。
何故忙しいのか。仕事を任せて、人を使っていないからである。現実この通りだ。
・人を使う。
使用は初歩である。
少し進んで任せて使うようになると任用になる。使の字をつかうと任使になる。
さらに進んで信じて任せると信用になる。
このように任せて人を使わないと、重職は忙しくなってしまう。
―③に続く-