剣道に強くなるための名言・格言 Ⅲ
不動智神妙録 沢庵禅師
21.3.15文責 高橋 通
沢庵禅師が柳生但馬守に与えた、剣の道を仏の教えで説いた(仏の教えを剣の道で説いた)書が不動智神妙録である。自分が自分になりきったところに剣の道、仏の道が有ると説く。技の修練を極めた後の生死一如の中での心の有り様を説くもので、技の修練もままならない私にとっては、本書との接触点を探すのが大変だが、このような境地も有ると知っておくことも有意義であろう。
現代語意訳で要点を記す。解説を付すためには禅に対する深い体験が必要なので、ご勘弁願う。
○無明(むみょう)住地(じゅうち)煩悩(ぼんのう)
心が迷い、何かにとらわれていると対応が遅れて相手に切られてしまう。心が何物にもとらわれていなければ、体が自由に対応して、相手が斬りかかってきても、その刀を奪って相手を切ることが出来る。
○諸仏(しょぶつ)不動(ふどう)智(ち)
色々な仏の姿は不動智を現している。
不動明王の姿も不動智を体現している。不動智とは決して一点に留まって動かない智慧というのではなく、心が四方八方に動きながらも1つのことにとらわれないのが不動智。不動明王のような不動智を身につければ決して負けることはない。
10人と対戦する時も、10人にとらわれないで、切りかかってくる太刀だけに対応することができれば1人だけを相手にしている対戦となる。
千手観音はとらわれない心、不動智によって千本の手を働かすことができる。仏に千本の手があるのではなく、不動智によって無数のことにも対応できることを象徴しているお姿と受け止めたらよい。
何かにとらわれてしまうと、他のことが分からなくなる。1枚の葉にとらわれるとその木全体を見ることができなくなる。千手観音を見てとらわれない心を学ばなければならない。
○初心から修業を初めて、不動智を身につけると、初心に戻る
剣を初めて持った時は、何も分からないから、無心で相手に立ち向かう。少し剣を習い始めると、構えだ、握りだと一つ一つにとらわれて思うように動作ができなくなる。修業を積んでいくと、動きが自然にできるようになって、一つ一つにとらわれることなく無心でいることができるようになる。
初心の頃の無明と煩悩、修業した果ての不動智とが一つになって無念無心になりきることができるようになる。
○理の修業、事(わざ)の修業
理の修業とは無心になる修業のこと。
事の修業とは技術を修める修業のこと。理と事は車の両輪。二つ揃っていなければ役には立たない。ともに修業することが肝要。
○間髪を入れず
間髪を入れずとは、二つの間に時間的にも空間的にも髪の毛1本入る隙間がないと言うこと。
相手が打ち下ろす太刀に心が止まればそこに隙ができる。隙ができると思うように対応ができない。仏の教えでは、心が引っかかってとらわれることを煩悩と言って嫌う。
川に鞠を入れて流すように、どこまでも止まらない心の状態を大切にする。
○石(せっ)火(か)の機
間髪を入れずと同じ意。ひうち石を打ち合わせると火花が出る。そのことを石火の機という。心を止める間のないことを言っているのであり、素早いことと取ってはならない。素早いのも、心をとどめないから結果として早くなるので、そこの所が肝心。仏の教えでは、おいと言われて、ハイと答えるのを不動智といって大切にする。不動智を自分のものにしきることを神とも仏ともいう。
○心のありよう
<以下、心について述べられているので、心とは何かを先に考えておくと、沢庵禅師の話が理解しやすくなると思う。私が考える心とは次の通りである。
心=行動作用の統合中枢意識
人間も含めた動物は、5感(或いは6感)を通して環境を認識し、個にとってより良い方向へと行動する。5感への影響は無数にあるので、それを統合斟酌して行動を決定する意識を心とした。意識には認識できる意識と、認識することができない意識(無意識)とがある。無意識の意識の中には人間が本来持っている濁りのないまごころが在る。ここではその両方を含めて捉えている。>
人は心という事を見極めることができないので、心に惑わされている。言うことと、やっていることが違うのは、心を明確に見極めていないためだ。深く工夫するしかない。
心をどこに置いたらよいか。
相手の太刀や動きに心を置けば、そこに心を奪われてしまう。切られまいとすれば「切られまい」に心を奪われてしまう。なんとも心の置き場所が見つからない。
ある人は、心を臍下丹田(たんでん)に押し込めて動かないようにすれば良いという。置き場所に困っているよりは良いのだが、高いレベルから眺めるとまだ不十分である。押し込めることに心が奪われているからである。
ではどうするか。
心をどこにも置かないことだ。あれやこれやと考えず、分別をきれいに捨てて、全身に心を捨て去ってほっておく。そうすると引っかかりなく手足を働かすことが自由自在になる。
偏と正ということ。
心を一箇所においた状態を偏に落ちると言い偏心という。心が体の隅々まで行き渡って状態を正心という。いずれの道においても偏に落ちることを嫌うものである。
肝心なのは、心を一箇所にとめないようにすることで、これは修業によって得られる。心をどこにも止めないこと、これが眼目であり、肝要なのだ。心をとどめないように思案すると既にそのことに心が奪われている。捨て去る修業の難しさがここにある。
本心と妄心ということ。
本心とは、一カ所に止まらないで総てにのびのびと広がった心のこと。妄心とは、何かに思いつめて一カ所に固まってしまった心をいう。のびのびとした広い心も、あることにかかずらあって固まると、たちまち妄心となってしまい役に立たなくなる。本心を失わないことが大切である。
有(う)心(しん)の心と無心の心ということ
有心の心とは妄心と同じ。一つのことに思い詰めていることをいう。無心の心とは本心と同じ。どこのも凝り固まらないでのびのびしている状態。どこにも置かない心。一カ所に止まらない心を無心の心といい、無心無念といったりする。
思うまいとも思わないこと
無心と言うことが本当に自分のものになると、心がのびのびと働いて身体も活発自在となり、見るもの、聞くもの、触れるもの諸々が真実となる。そこで無心になろうなろうと務めると、務めることが有心の心となり、妄心となってしまう。そこで、無心になろうとするならば、一切思わないことが大切。思うまいとも思わないこと。思わずにいれば、自然に心の中に有るものがなくなって、無心となることができる。いつでも、こうして心にものをなくしていれば、そのうちに、いつの間にか自分を無心できるところまで行くことができる。せっかちになろうとしてもできるものではない。
応無所住而生(おうむしょじゅうじじょう)其(ご)心(しん)
どのようなことでも、これをしようとすると、そのやろうとすることに心が止まってしまう。従って、止まる心を止めずに、やろうとする心を持つべきだということです。
やろうとする心を持たなければ、なにごとも、できません。やろうとして心を働かせると、そこに心が止まる。それを止まらせずにやるのを、それぞれの道の名人という。
花や紅葉を見て、花や紅葉を見る心を持ちながら花や紅葉に心を止めないのが肝心です。
意識的な修業から無心の境地へ
仏法では「敬」の字を「精神を集中して心を移さぬ事」と解釈し、心を動かさない工夫を大切にしています。仏に対しては一心不乱に仏に対するのです。しかし、この段階は修業のレベルであって、まだ最高の境地ではありません。心の乱れを押さえようとしているのですが、自由な働きも押さえ込まれてしまうのです。
孟子の言葉に「放心を求めよ」があります。見失った心を取り戻せということで、大切なことですが、心に執着が残ります。
いずれも、心を乱さないで自分のものにしておこうとするとで、大切ですが、このレベルに止まっていては、無心の境地には達することができません。
応無所住而生(おうむしょじゅうじじょう)其(ご)心(しん)とはその心を捨てきることです。
剣にたとえて言えば、刀を打つ手に心を止めず、打つ手をすっかり忘れ去って打ち、人を切るのです。相手に心をはたらかすなということです。人も空、自分も空、そして敵を打つ手も、打つ太刀も一切を空と思い、空だ空だ、空であることにも、心をとらわれないようにすることです。
無学禅師がまさに斬られようとした時に、斬られることにも心をとどめない境地を表した偈(げ)、「電光(でんこう)影(えい)裏(り)春風(しゅんぷう)を斬る」は達人である。
前後際断(ぜんごさいだん)ということ
前の心を残すことも、今の心を後に残すことも良くない。それで、前と今の間を斬ってしまえということです。以前のことに心を引かれていることは、心を止めること。無心となっていない。
短い命を大切にして、己の道に務めよ。
<以下、息子十兵衛の行状や、但馬守の悪評について苦言を呈し、領主として国を納める心得を、手紙のかたちで説き聞かせている。こうした内容は、後の兵法家伝書の中に、修身・治国・平天下を目指す柳生新陰流の考えとして繋がっていく。>