剣道に強くなるための名言・格言 Ⅱ
山岡鉄舟
21.3.10 文責 高橋通
勝海舟・高橋泥舟と合わせ幕末の三舟といわれた山岡鉄舟は、明治以降実用としての意義を失った剣法を、鍛錬を通じて心胆を練ることに新たな意義付をして、現在の剣道への道を拓いてくれた先達者であり、剣と禅をきわめた達人として有名であるが、残された文章は少ない。鉄舟は、剣は刀で勝負を争うのではなく、技(事)と心(理)を一致させる努力のなかで心を磨き、その鍛錬した心の刀で相手と対峙するという「心外無刀(心の外に刀なし)」を唱えて、無刀流の開祖となった。鉄舟の理念は「剣道は修養である」につきる。この考えは現在の剣道の理念に通じている。徳間書店「山岡鉄舟・剣禅話」髙野澄訳から、気に入ったところを抜き書きする。
○一刀流兵法箇条目録
一、二之(にの)目付之事(めつけのこと)
二、切落(きりおとし)之事
三、遠近之事
四、横(よこ)竪(たて)上下(じょうげ)之事
五、色付(いろつき)之事
六、目心(もくしん)之事
七、狐(きつね)疑心(ぎしん)之事
八、松風之事
九、地形之事
十、無(む)他(た)心(しん)通(つう)之事
十一、間之事
十二、残心之事
以上十二箇条
そもそも当流刀術を一刀流と名付けたる所以のものは、元祖伊藤一刀斎なるをもっての故に一刀流というにあらず。一刀流と名付けたるにはその気味あり。
万物、太極の一より始まり、一刀より万化して一刀に治まり又一刀に起こるの理有り。
又曰く、一刀流は活(かつ)刀(とう)を流すの字義あり。流すはすたるの意味なり。当流すたることを要とす。すたると云うは、一刀に起こり一刀にすたることなり。然れども其のすたるの理通じ難し。ここに於いてか、さきより門前の瓦と云えるたとえあり。瓦を持って門をたたき、人出で門開く。この時用をなしたる程に瓦をすつべきを、そのまま持て席上に通らばかえって不用の品とならん。これ、すてざるがゆえなり。
業(わざ)もまた然り。うつべきところあらば一刀にうちて用をなしたる故、ここにすたることあらばまたおこる。万化すといへどもみなしかり。うってうたざるもとの心となる。これ力すたるの至極なり。
又曰く、流は水の流るるなり。流るる水の如く、機にすこしもとどこうりなきの理もあり。流るる水の勢い又広大なり。山を流し谷をもこす。かくある時は、流は元祖のくせと見るなり。一刀斎が剣術のくせの勢を学ぶと云うなり。俗に云うまねをするの意味なり。一刀斎のまねをしてくせを覚えるの心なり。近くは、後人師のくせを学ぶが流なり。
兵法とあるは武道なり。武芸の総名兵法なり。剣術とあるべきところ兵法としたるは、ことを広くみせんがためなり。一芸の一理をもって万理におしうつるの意味なり。
十二箇条は、一ヶ条づつ十二ヶ条目録をあげて其の次第を伝えるところなり。一をつみて十二とあげたるは意味深長なるところなり。一刀よりおこって万剣に化し、万剣一刀に帰す。年月の数十二ヶ月あり。一陽に起こって万物造化し、陽中陰をめぐみて万物生じ、陰ここに極まりて年月つくるものと見れば、陰中陽を発してまたいつか青陽の春にかえる。陰陽循環して玉のはしなきが如く。
当流守(しゅ)行(ぎょう)もまたかくのごとし。一よりおこりて十二におわる。しこうしてまたもとの一にかえりてつくることなし。またもとの初心にかえり、またもとにかえり、無量にして極まりなき心を以て十二の箇条をあげたり。
一、二之(にの)目付之事(めつけのこと)
二の目付とは、敵に二の目付ありと云う事なり。先ず敵を一体に見る中に、目の付け所二つあり。切先(きっさき)に目をつけ、拳に目を付く、これ二つなり。ゆえに拳うごかねばうつことかなわず。切先うごかねばうつことかなわず。これ二つ目を付ける所以なり。敵にのみ目をつけ、手前を忘れてはならぬ故、己をも知り彼をも知る必要あるを以てかたがたこれを二つの目付と云うなり。
二、切落(きりおとし)之事
切落とは、敵の太刀を切落としてしかる後に勝つというにはあらず。石火(せっか)の位とも、間(かん)に髪(はつ)を容れずともいう処なり。金石(きんせき)打ち合わせて、陰中陽を発する自然により、火を生ずるの理なり。火何れよりか生ず。間に髪を容れざるの処なり。切落すとは、共に何時の間にやら敵にあたる一拍子なり。陰極まって落ちる葉を見よ。陰中に陽あって、落つると共に何時の間にやら新萠を生じてある。切落すと共に敵にあたりて勝ちあるの理なり。
三、遠近之事
遠近とは、敵の為に打つ間遠くなり、自分これが為に近くなれという事なり。何故なれば、身体そり仰ぐ者は打つ間遠くなり、まびさし伏しのぞみかかって打つ者は打つ間近し。敵を見下ろすと見あぐるとは大なる違いあり。遠き面にのぞみて近き拳に勝あることを忘れ、近きに勝あるを知って遠き面を打つ、これをもって遠近というなり。
四、横(よこ)竪(たて)上下(じょうげ)之事
横竪上下とは、真ん中の処なり。……
五、色付(いろつき)之事
色付とは、相手の色に付くなという事なり。……
六、目心(もくしん)之事
目心とは、目で見るな、心で見よという事なり。目に見るものはまよいあり、……
七、狐(きつね)疑心(ぎしん)之事
狐疑心とは、疑心を起こすなという事なり。……
その敵に対してかくしたらばこうやあらん、かくやあらんと疑いおる内に敵にうたるるという意味なり。
八、松風之事
松風とは合気をはずせという事なり。……
合気にはずれねばよきかちにあらず。……
九、地形之事
地形とは、順地逆地の事なり。つま先下がりの地を順といい、つま先上がりの地を逆という。順は勝地といって敵を拳下がりに打つゆえ利多し。……
十、無(む)他(た)心(しん)通(つう)之事
無他心通とは、敵を打つ一遍(いっぺん)の心になれという事なり。常の修業中にも見物多きためなどに心うごき、あるいは余念に心引かれては自己一杯の働きならぬもの故、他に心を通ぜず、己れ修し得たる業(わざ)だけを以て敵にあたれとの事なり。
十一、間之事
間とは敵合の間の事なり。…… 当流一足一刀と教えり。……
又曰く、間は周光(しゅうこう)容間(ようかん)などいうて敵の隙間(すきま)次第(しだい)に入りて勝つの意味あり。
十二、残心之事
残心とは、心を残さず打てという事なり。あたるまじと思う所などわざと打つなどは、皆残心なり。心残さねばすたるなり、すたれば本(もと)にもどるという理なり。かくいえばゆきすぎて腰(よう)身(じん)になるようなれども、かくあやうき所を務めねば狐疑心になりて手前をおしみ、間髪を容るべからざる業の神妙に至ること叶わず。是を以て、勝つところに負けあり、負けるところに勝ちあるべし。其の危うき負けあるところを務めて自然に勝ちあることを会得すべし。
自然の勝ちとは、節を打つなり。鷹の諸鳥を取るに、皆節にあたる。剣術もまた然り。節にあたらざるは勝ちの勝ちにあらず、節にあたれば百勝疑いあるべからず。
善をすてて悪を務め、悪を務めて善を知る。当伝を捨てまた本の初心の一にかえり、怠慢なく務むべきことなり。
心残さねば残るという理もあり。もどるの心なり。たとへば茶碗に水を汲み、速やかにすて、また中を見ればそく一滴の水あり。これすみやかに捨てるゆえにもどる。是をもって、おしまずすたること当流の要とす。
これぞ奥義円満之端糸口となり、終(つい)にみがき玉のはしなき如くの時に至るべしとなり。
<一刀流兵法箇条目録は鉄舟の著作と言うより、開祖伊藤一刀齊から連綿と伝わってきた一刀流の剣理を伝えたものである。十二箇条は武蔵の五輪書にも似たような項目が見られている。残心を「8分で打って、2分は打った後に備えること」と考えていたが、これでは負けると鉄舟が明言する。捨てきった打ちがあって、はじめて次への対応が可能となる。このところ用心が肝要。>
○剣法邪(じゃ)正(せい)弁(べん)
剣法正伝(しょうでん)真の極意は、別に法なし、敵の好む処に随いて勝ちを得るにある。敵の好む処とは何ぞや。両刃(りょうば)相対すれば必ず敵を打たんと思う念あらざるはなし。ゆえに、我が体を全て敵に任せ、敵の好む処に来るに随い勝つを真正(しんせい)の勝ちという。……
即今(そっこん)諸流の剣法を学ぶ者を見るに、是に異なり、敵に対するや直に勝気(かちき)を先んじ、みだりに血気の力を以て進み勝たんと欲するがごとし。これを邪法という。
如上(じょじょう)の修業は一旦血気盛んなる時は少し力を得たりと思えども、中年過ぎ、或いは病に罹りしときは身体自由ならず、力衰え業(わざ)にふれて剣法を学ばざるものにも及ばず、無益の力を尽くせしものとなる。
これ、邪法をかえりみざる所以というべし。……
<この章は痛いほど刺さる。60歳を過ぎても、打とう打とうとする私の剣は邪法。反省しつつも今日も勝ち気が抜けなくて、無理な打ち込みを繰り返す。邪法を改めなければ、無益なだけでなく、怪我のもと。荒井先生からは「無駄・無理・無謀は止めなさい」「すり足の剣道を勉強しなさい」と言われているのだが、進化なし。>
○無刀流
剣法は、鍛錬刻苦して無敵に至りたるを以て至極(しごく)とす。
優劣ある時は無敵にあらず。是れ皆心のなす所にして、優者に向かう時は心止まり、太刀控えて運ばず。…… 劣者に向かう時は心伸び、太刀自在をなす。……
無刀流と称するは、心外に刀なきを無刀という。無刀とは無心というが如し。無心とは心をとどめずという事なり。心をとどむれば敵あり。心をとどめざれば敵なし。いわゆる孟子(もうし)の浩然(こうぜん)の気(き)天地の間にみつというは、即ち無敵の至極なり。
<先生に向かっては肩に力が入り、子供とやる時は軽やかに技が出る。ここに記されている通り、強弱の敵ばかりで「無敵」にほど遠い。情けない。>
○無刀流剣術大意(たいい)
一、無刀流剣術は、勝負を争わず、心を澄まし胆を練り、自然の勝ちを得るを要す。
一、事理(じり)の二つを修業するにあり。事は技なり、理は心なり。事理一致の場に至る、これを妙処(みょうしょ)と為す。
一、無刀とは何ぞや、心の外に刀なきなり。敵と相対する時、刀によらずして心を以て心を打つ、これを無刀という。其の修業は、刻苦工夫すれば、たとえば水を飲んで冷(れい)暖(だん)自知(じち)するが如く、他の手を借らず自ら発明すべし。
<剣禅一如の鉄舟の言葉は、剣道の稽古の質を高めてくれる。法華経でいう「気づくこと」がことが悟りなら、稽古を通して悟りが広がる。>